※本記事に観光要素は全くありません。主に自戒の念を込めての記事化です。普段の旅行記と違い、他人に読んでもらうことをあまり想定していない文章ですがご容赦ください。
※この先怪我の描写と写真があります。苦手な方はご注意ください。
2019/4/27 宝島路上
今回、半分以上が民宿ではなくキャンプということで、島に滞在中のあらゆることを自分だけで完結することを想定していました。食品をある程度持ち込むだけでなく、移動手段もしかり。ということで、島内の移動用にキックボードを持ち込んでいました。
集落を離れたあたりでキックボードを組み立て、観音洞までの移動から使用していました。観音洞から宝島を一周する道路に戻ろうとしていた最中、相変わらずキックボードで滑走していたら、道の真ん中、車輪の進むすぐ先にちょうど車輪くらいの大きさの窪みがありました。
しまったと思った瞬間にはもう遅く、身体の正面から地面に打ち付けられていました。その瞬間どう転んでどこから地面に着いたのか、後から医者などに何度か訊かれることになりますが、自分でもよくわかっていません。
転んだ瞬間は痛みというよりも「あっ、やっちまった」という、学校で先生に怒られた時のような罪悪感や後ろめたさみたいなものが先にやって来ました。「夢だったらいいのにな」とか「これで旅ができなくなるとか無いよな?」とかいう思いが頭をよぎるものの、自分がうつぶせになった地面の感触はどこまでも現実だったのが悲しくて、自分の現状を知ることに対する恐怖がものすごかったです。
とはいえ寝転がったままでいるわけにもいかず、気が進まないながらも自分の視界を改めて意識に取り入れることにしました。まず目に入ったのはコンクリート舗装路の上、手の平くらいの血だまりでした。「あっこれは放っておいてどうにかなる事態ではないな」と察したところで急いで立ち上がる。無事に立ち上がれました。では出血したのはどこなのか。慌てて身体を見回すと、右手中指第一関節より先の側面をざっくりと切っていました。素人目には、今後この指が100%機能回復するものとも言い切れないような見た目をしていました。
後々判明するものも含めて、今回の負傷内容と物品の損害をまとめます。
【身体】
左手…橈骨(肘と手首の間の骨の、手首側の端)の端を骨折(=橈骨遠位端骨折)。手の甲に擦り傷少し。
右手…中指ざっくり切傷、爪の根本も外傷。薬指に中程度の切り傷。手の平に深い擦り傷。小指側の側面を打撲。腕に手の平大の擦り傷。
顔面…右側面に手の平半分くらいの擦り傷。
胸…全体的に打ち身と痣。
【物品】
眼鏡…フレームが変形し大破。
一眼レフ…事故当時たすき掛けしていた。レンズ根元部分から折れる。ボディ部分もフラッシュが吹っ飛び、折れて残ったレンズのマウント部は変形して外せないため使用不能。
時計…文字盤やベルトに目立つ傷が入るが機能はしている。
※キックボードは憎らしいほどに無事。
一番の重傷を負っていたのは左手首だったのですが、負傷直後はとにかく中指からの出血がものすごかったことに気を取られていたのか、そこまで痛みを感じていませんでした。とにかく指をどうにかしなきゃ、でも診療所までとても悠長に歩いて行けるような距離と状況ではありませんでした。
これは電話で助けを呼ぶしかないとポケットからスマホを取り出したものの、右手はすでに血まみれ。出血のない左手も既に一度右手に触れていたので、スマホを操作できるような状態ではありませんでした。
どうしたものか、まず自分自身だけでやるべきことは何かと10秒ほどその場で考えを巡らせていると、観音洞のほうから一台の商用車がやって来ました。後から思い至ったことですが、どうやら現場工事の仕事で滞在している来島者だったようです。
すぐさま手を挙げて車を止め、今ここで転んで怪我をした旨を話しました。運転していた男性は顔面の出血にぎょっとして、次に手元の血を見るや否や、肩に掛けていたタオルを僕に手渡しました。そして転がっていたキックボードを荷台に積んでくれました。僕もへし折れたカメラのレンズを左手で拾い上げました。本格的に痛みを認識し始めたのはこのあたりからです。
2019/4/27 宝島診療所
先ほど通りがかった診療所へは車なら5分かそれ未満の距離でしたが、ここからが痛みとそこから来る吐き気との戦いでした。助手席では視界が歪みながら何度も「ごめんなさい」と「ありがとうございます」を言っていた気がします。指の傷の深さに若干パニック気味にもなりましたが、とりあえず診療所までほぼ最短で行けることになり若干安心したことを覚えています。男性から渡されたタオルは右手の中指に押し当てて、ひたすら止血していました。もちろんとっくに血だらけです。
診療所に着くと、鍵は掛かっていなかったものの中には誰もいませんでした。診療所まで乗せてくれた男性は、向かいの郵便局へ入り至急看護師を呼んでもらえるようにお願いしてくれていました。看護師が来るまでは、止血をしながらもリュックを下ろしたりする余裕はなく、ソファの上でじっと痛みから来る吐き気と眩暈に耐えていました。
長くも感じましたが、おそらくそんなに時間も空けずに看護師が診療所に来ました。自分の親ぐらいの年の女性でした。
看護師さんに案内されるまま診察室へ入り、手伝って貰いながら荷物を下ろしました。それからパイプ椅子に座り、受傷箇所の確認です。左手首もなかなかまずいかもしれないという話になったのはこの時でした。見るからに手首が腫れていました。
そして外傷を負ったとなればもちろんまずは傷口の洗浄です。流しの前に立たされ、看護師さんに両手を片方ずつ洗われました。洗われましたと言うとまるで不本意のようですが、この瞬間ばかりはさすがにしんどくて感謝どころじゃなかったというのが正直なところです。中指の切傷を流水で洗い、手の平の深い切傷も手でこすり洗いをして貰いました。痛さで崩れ落ちそうになりましたがなんとかこらえました。
傷を洗い終えると再び椅子に座ったのですが、座っていてなおみるみる血の気が引いていくのが自分でも分かりました。顔色にも出ていたようで、すぐ横になるようベッドに案内されました。
トカラの各島を巡回している医師はこの日宝島におらず、最も鹿児島に近い口之島にいるとのことでした。これから口之島の診療所とテレビ電話を繋ぎ、画面越しに診察を受けることに。しばらく待つとテレビ電話が始まったので、再び椅子に座りなおしました。
自分でも事故の状況を伝えた後は、カメラに向けて傷口などを一ヶ所ずつ見せながら状況を検証します。見た目一番重傷だった右手中指は、縫合の必要は無さそうだとのこと。骨こそ見えていなかったものの、切傷としては一般的な想定の範疇をはるかに超えると思っていただけに、本当に縫わなくて大丈夫なのかと若干不安もありました(結果、無事に繋がっています)。
一番重大に取り上げられたのは左手首でした。その時点で手首はまっすぐの状態から上に曲げることが全くできませんでした。やはり骨折の可能性があるという診断に。
「旅行を中断してなるべく早く鹿児島(または奄美)に戻り、レントゲンを撮って精密な検査を受けることをお勧めします」という、不思議なくらい患者側に判断を委ねるような言い方をされましたが、転んだ直後に立ち上がって傷を見た瞬間からそのつもりでいた僕は食い気味に頷きました。
左手首は固定しておいたほうが良いということになったものの、診療所にはシーネ(添え木)が指程度のサイズしかない模様。最終的に出てきたのは、点滴用らしい腕の固定具でした。医師もそれで代用できるでしょうと頷き、あとは痛み止めの処方を看護師さんに告げました。
こうして僕は翌早朝の船で鹿児島へと帰ることになったのですが、どうやらテレビ電話の向こうの先生も、同じ船で鹿児島へ渡るそう。ということで、船内で改めて簡単に状態を見てもらえることになりました。
左手首の固定の他にも、各所の切傷や擦り傷にもガーゼを巻いたりフィルムを当てたり絆創膏を貼ったりと一通り処置して貰いました。転倒時に大破し吹っ飛んだ眼鏡を拾い忘れて現場に置いてきたことに気付いたのは、このくらいのタイミングでした。
そんな訳で明日の朝一の便で鹿児島へ戻ることにしましたが、出航前に一度ガーゼを取り換えてもらえることに。ありがてえ。診療所に朝4時集合だけど。
そして肝心のお代ですが、診療所には治療費を計算する機能がないため、保険証を持参している人はとりあえず5,000円(持参していない人は10,000円)を納めます。後日集計し、差額が指定の口座に振り込まれます。関連の書類を書かされるのですが、右手がガーゼや絆創膏でもこもこだし動かすのも痛いしでまともに書けません。が、どうにか書きました。書いているうちに中指の傷からまた血がにじみました。
診療所に置いてもらっていたキックボードやカメラを回収し、バッグに詰め……るのがものすごい大変でした。左手は外傷が比較的無いけれど手首が死亡。右手はまともに動くのが親指と人差し指だけ。両手とも手の平~手の甲が内出血していて、重いものは持てません。
診療所を後にしてまずは出張所へ戻り、先ほど買っておいた中之島行きの乗船券に差額を払って鹿児島行きに替えて貰いました。財布を出してお金を払ってお釣りを受け取るその作業が苦痛でした。
2019/4/27 民宿
心身ともにヘトヘト状態で宿へ帰還。しかしこれからやらなきゃいけないことがあります。すっかり旅モードになっている荷物たちの荷造りです。診療所から宿まで移動しただけでも、今の自分が本当に最低限の荷物しか持ち歩けないことを思い知らされました。明日は自力で船に乗って降りて病院に行かなければならない(最終的には家に帰らねばならない)ので、とてもじゃないけれどフル装備を抱えて移動なんてできません。ということは、必要最低限の荷物だけを選別する必要があります。
ということで、各バッグに詰まった荷物をまずは一通り引っ張り出す。右手の親指と人差し指くらいしかまともに動かせない現状で、バッグに詰まったまま選別なんて器用なことはできません。それどころか、バッグのジッパーの開け閉めだけでも手に痛みが走るレベルなのです。場合によっては口での開け閉めも辞さない状況でした。
そして、出した荷物を仕舞うのがさらに至難の業。バッグに物を押し込むという行為が痛くて出来ないので、ふんわりと乗せていくだけというまるで非合理なパッキングです。当然、詰めなおした後は収まりきらず、予備に持っていた袋も広げて使いました。体積の大半を占めるキャンプ用具、食料、キックボードを手持ち荷物から外し、ほぼ着替えと電子機器類だけに絞り、バッグひとつにまとめました。あとの荷物は夕食の時、女将さんにお願いして後日着払いで送って貰えるようにしました。とはいえゴールデンウィーク期間中に郵便局が開いていたのはこの日が最後だったようです。「発送は5/7になるけどいい?」と訊かれましたが、どのみち怪我が治る前に必要なものは一切含まれていないので即座に大丈夫ですと答えました。
実際怪我がどんなものなのか、写真も残しているので掲載しておきます。
後に骨折と診断される左手首。この時点で手はかなりむくんでいます。ちなみに固定具は使い捨てのものではないので、連休後にレターパックで診療所へ送り返しました。
中指はガーゼを巻いた上に、防水目的でニトリル手袋の親指部分を切ってかぶせています。この手が一番見た目がグロくなるのは負傷後3~7日後の、内出血が痣となって表に現れた頃ですが写真を撮りそびれています。
ちなみに、どちらの手も物をつかんだり持ち上げたりがままならないので、この写真を撮るだけでも一苦労です。
夕飯もなかなかにしんどくて、箸も根性でどうにか扱っているような状況でした。左手は手の平を上にして椀を持つなど出来ないので、何をするにも右手の一部の指だけです。お茶の入ったピッチャーを持つのが一番の苦痛でした。
食事後、風呂に入ることも当然ながらできないため、すっかりしょんぼりしながらブラタモリを見たりスマホをいじったりしていました。ついでに、翌日の鹿児島での宿と翌々日の飛行機も押さえておきました。昼間の間船に乗って、夜に鹿児島に着いて病院で診てもらい、その日は遅くなるだろうから市内で一泊して翌朝帰路に就こうという寸法です。連休中は実家に転がり込むつもりだったので、親にも併せて連絡済みでした。親からのLINEで「とりあえず命があってよかった」と返ってきた時にはさすがに号泣しました。
2019/4/28 民宿
事故当時からの気持ちとしては旅を中断する悔しさはかなり薄くて、それよりも己の情けなさと、取り返しのつかない事態にならずに済んだとりあえずの安心感と、負傷が完全に回復しうるものなのかという不安ばかりでした。そんな感じで昨晩なかなか寝れなかったのですが、気付いたら寝ていて看護師さんと診療所で落ち合う約束をしていた時間まで寝ていました。宿の人に起こされました。かろうじて荷造りを昨晩のうちに済ませておいて良かったです。
急ピッチでガーゼの取り換えを行ってもらい、再び宿に戻って荷物を持ち、宿の車で港まで送ってもらいました。
2019/4/28 フェリーとしま2
7割ほどの荷物を民宿に預け(後日発送を依頼)、港へ到着です。宝島に着いてから正味半日、怪我前の観光時間で言えば2時間そこらで僕のトカラ列島は終わりました。
(5:23)
コンクリートミキサー車が後ろ向きでランプウェイを上り乗船していました。
(5:33)
来て早々に怪我して帰っていくとか、なんかもう完全に迷惑掛けに来ただけの人じゃないか自分。
(5:41)
フェリーとしまの下り便は、乗船後に船内の受付に並び座席(寝床?)を割り振ってもらいます。昼間の便とはいえこの怪我を負って雑魚寝は嫌だったので、2等寝台を購入していました。しかし、この怪我なら介護ベッドの船室をあてがって貰えるだろうと看護師さんも一緒に船に乗り込んで状況を説明してくれました。僕の出る幕なく介護ベッドの船室を割り当ててくれる運びとなりました。アホな理由で怪我したアラサーにここまで面倒見よくしてもらえて、看護師さんには頭が上がりません。
この船室はしばらくの間貸し切りでしたが、後半の中之島あたりで家族連れとシェアすることになります。
(15:29)
船室のベッドで仰向けになり、胸の上にカメラを置きセルフタイマーで撮影。左手は手首さえ固めれば痛くないのでひたすら不便なだけですが、右手中指は動かした拍子に傷が若干開くことがあるので厄介です。ちなみに傷が開かなくともいずれかの指を動かすだけで痛いのでチャックを閉めるだとかの動きは激痛を伴うかそもそも不可能です。ペットボトルの蓋を開けることもできないため、座って両足の裏でボトルをつかみ、歯で開けていました。
見た目的にも能力的にもそんな状態なので、船室から出て外を見て回ったりする気にもなれず、基本的にずっとベッドの上でiPhoneに入れたKindleアプリで時間をつぶしていました。
最後の寄港地である口之島に到着後、昨日テレビ電話で診療を受けた先生が約束通り訪ねて来てくれました。怪我の具合を簡単に確認され、鹿児島の病院への紹介状を受け取りました。
(18:38)
鹿児島港に帰還。実に45時間ぶりです。そのうちの30時間くらいは船の上だったわけですが。
さて、ここからは何かしら面倒を見てくれる人はおらず、全部自分で決めて自分で動かねばなりません。そういう意味では一人旅と一緒なのですが、怪我を治すという達成すべき前提がある中で己の判断だけで行動しなきゃいけないというのは旅程を組むのとは違い結構くたびれるものです。
港に待機していたタクシーを拾い、10分も掛からない大きな病院へ。ER(緊急外来)で紹介状を見せ、診察を受けたりレントゲンを撮ったりとしましたが、大半は待ち時間でした。とはいえ連休のさなか、旅先で精密に診てもらえるだけでもラッキーと言うべきものでしょう。
レントゲン後の診察で言われたのが、これまで書いてきたとおりの左手首の骨折でした。肘と手首の間には2本の長い骨がありますが、このうちの親指側にあたる太いほうを橈骨(とうこつ)と言います。
CT検査で骨の折れ方をさらに細かく分析したところ、この橈骨の手首側の先端がパクっと割れているようです。割れた幅は5~6mmほど。間接に面した部位なので、関節の骨折という扱いのようです。かなりの確率で折れていることには薄々感づいていましたが、どことなく期待していた取り越し苦労ルートは完全に断たれました。
ここで、今後の治療について先生から提示された主な選択肢は2通り。
①通常の骨折のように患部を固定し、割れ目へ自然に骨が埋まるのを待つ(ギプス1~2ヶ月)
②金属プレートを埋め込み骨に当てることで、割れ目を押し戻す(全身麻酔外科手術)
①の方は誰もが知る古くからの治療ですが、②の方法には正直「そんなこともできるんだー」という感想でした。そして、ずいぶんと大げさになってしまうんだなとも。
しかし、①で骨が埋まってくるのを待つと、その部位は間接の一部のため今後の手首の動きに影響が出るかもしれないとのこと。骨折の自然治癒は、骨折前よりも膨らんで骨が埋まるのがごく一般的だからです。それに対し②は外科手術なのでそれなりに面倒ですが、術後2~3日で手首を動かせるようになるとのこと(すぐ動かせるというのは、ブランクが短いためにリハビリも比較的苦労しないことを意味します)。しかも、割れたところを人工的に押し戻してしまうので、膨らんで骨が付くリスクもありません。
ここで決定打だったのが、先生の一言。
「明後日なら僕が手術できるから、今晩から入院するのでもいいよ」
今晩から入院し、明後日に手術、明々後日には退院して地元へ戻るというスケジュールが可能だというのです。結論だけ出して地元に帰る流れかと思いきや、鹿児島で治療、しかも手術。
とはいえ、このスケジュールなら連休の半ばには退院して、後半戦を丸々療養に充てることができるのです。どうせ何もせず地元へまっすぐ帰ったところで、この連休中すぐに治療を行ってくれる病院を探すことだって大変です。それならもう、このまま鹿児島で手術まで受けてしまうのが一番効率が良くリスクも低いことは明らかでした。若干の心細さが理性的な判断を邪魔しそうになりましたが、どうにか冷静な結論を下すことができました。
怪我をして民宿に戻って以降、親には状況を逐次報告していたのですが、親の方も上記の理由から鹿児島での手術を支持しました。ということでそのまま入院決定です。長い待機時間の末すでに日付が変わろうとしている中、スマホで今晩のホテルと明日の飛行機をキャンセルしました。
入院する判断をしてからの流れは速く、そのまま病棟へ案内されました。旅行用の荷物でしたが、ジャージもサンダルも歯ブラシも既に持参している、飛び込みのくせにやたら準備の整った入院患者となりました。ベッドの上で最低限の書類関係の記入を済ませたら、この日は終了です。病棟に着いた直後、目の下からつつーっと水が滴ったので、早速心細さから勝手に涙が流れたかと思いきや、顔に貼ったキズパワーパッドから傷口の露が溢れ出たのでした。
2019/4/29 米盛病院
(7:29)
病室からおはようございます。昨晩は本当に日付が変わりそうな夜中から入院しましたが、病院的にも保険屋さん的にも入院は4/28からという扱いなので今日は入院2日目です。
緊急外来にいた時から思っていましたが、この病院新しくてとても綺麗です。連休のうちに手術の日程も組んでもらえたし、不幸中の幸いが重なっています。
(7:29)
朝ごはん。ごはんに味噌汁にぜんまい煮。シンプルですが、自分の普段の一人旅での朝食よりだいぶ豪華です。ちなみに入院中の食事はすべてスプーンで食べました。怪我したその日の民宿の食事こそ箸を使えましたが、時間が経ってくると内出血や傷が本格的に傷んで細かい動きができなくなりました。
ベッドにいる間は当然ながら暇なので、Amazonのプライムビデオをしこたま観ました。入院中に観た映画はこちら。
「幕が上がる」「マッドマックス1・2」「トップガン」「トゥルーマン・ショー」「銀河鉄道999」「キス我慢選手権 THE MOVIE1・2」「バックトゥーザフューチャー1・2・3」「フラッシュダンス」
ちなみにこの病院、WiFiも無料で使えます。最高かよ。
(11:25)
この日はまだ何にも繋がれておらずちょこちょこ歩き回ることができたので、自分の部屋からは見えない桜島なんかも見に行っていました。
(12:03)
昼ごはん。病院食にとんかつだと……!?
意外ではあったものの、我々骨折組は内臓の病気ではないのでまあ普通の食事が取れるんですよね。
そんな感じで入院2日目は悠々と過ごしていましたが、午前中のうちに採血、昼食後からは麻酔の量を決める肺活量の測定を行いました。肺活量の測定では当然、めいっぱい吸ったり吐いたりするのですが、こんな検査を食後20分くらいでやるもんじゃありません。気体ではなくゲル状のものが出そうです。
その後はシャワー。金曜の夜、往路のフェリーとしま2船内で浴びて以来なので、3日ぶりの入浴です。シーネを当てている左手は二の腕まですっぽりビニールを被せられ、片手での入浴です。しかしその残った右手も切傷擦り傷打撲でろくに動く状況ではありません。じわじわと痛みに耐えながらどうにか親指と人差し指だけで何かができるような状況。皆さんも試してみれば分かるかと思いますが、トータル2本の指で身体を洗うなんて至難の業です。それでも入らないよりは全然マシで、それなりにすっきりできました。この時のシャワーで、手の平に出来かかっていた幼年期版かさぶたのほとんどがずるっと落ちていきました。他が痛いからか、そこまでの痛みではありませんでした。
そして午前・午後それぞれの時間に1回ずつリハビリ。動かせる範囲で肘や肩や指を動かしたり動かされたりします。
あとは夕方頃に麻酔科医から、翌日の手術での麻酔の説明と同意書へのサイン。午前中には入院書類を書くなどもしていたので、ひたすらに暇するかと思いきや毎時間何かしら用事がありました。
(17:59)
夕飯。いちおう朝から夕にかけて品目数は増えているようです。
(18:40)
テレビ(たしか300円/日くらい)をつけてみれば、世間はGWの話か改元の話ばかり。基本的には自分のスマホで映画ばかり観ていました。
(19:40)
両手の状況はあまり変わらず。左手は昨晩からちゃんとしたシーネ(添え木)になっています。包帯やガーゼや絆創膏は、シャワーの後に替えてもらっています。
そして翌日の手術に向け、20時には食事断ちが始まりました(炭酸飲料なども含む)。以降口に含んでいいのはお茶と水のみ。コンビニで買ってきたお菓子を19時台に駆け込みでポリポリ食べていました。
2019/4/30 米盛病院
翌朝。朝ごはんは食べられません。食事の時間になると部屋に食べ物のにおいが漂うのですが、味の濃いにおいはしてきません。野菜を茹でたような優しいにおいは前にどこかでかいだことがあるなと思ったら、永平寺の修行僧たちの調理場から漏れてきたにおいと一緒でした。
午前中には水分も断たれます。同時に点滴がスタート。
元来落ち着きがなくてトイレも近いタチなので、行動に制約が生まれ始めるととたんにフラストレーションがすごいです。昼には術衣(とてもはだけやすい)に着替えてさらに出歩きにくくなりました。余談ですがTシャツを脱ぐときに左の二の腕がつりました。
14:20、ついに手術が始まります。全身麻酔です。14時すぎに招集が掛かり、歩いて手術室に向かいます。全身麻酔はこれで人生2度目なのですが、17年前の前回(実はこれも左手首骨折だった)は病棟からストレッチャーで移動した気がするんですが、これって病院によって方針が違うんでしょうか。自らの足で歩いて手術台の上に横になりに行くあたり、処刑台まで歩かされているような気分でした。いや、治してもらうんですが。
点滴に睡眠薬を入れられたとたんにすっと意識が遠のき、いわゆる寝落ちのような感覚が最後の記憶になります。
術後、名前を呼ばれながら肩を叩かれて目が覚めました。実際のところ2時間が経過しているのですが、気分的には30分くらいの深い眠り程度です。施術を終えた左腕ですが、肩から先が丸々感覚がありません。手術台の上で左の腕を折りたたまれても、えらく重たい異物がぶら下がっているような感じ。手術室内で迎えに来ていたベッドに移され、帰りはベッドに乗せられたまま帰っていきました。
無事手術が終わったものの、食事に関してはその日の晩も食べることができないようです。ただし術後6時間もすれば食べていいらしいので、点滴を繋がれる前に勧められるままコンビニで食べ物をいくらか調達済みです。
夕方貰ったレントゲンのプリント。ガッツリ入ってる栓抜きみたいな形をしたやつが噂の金属プレートです。チタン製みたいです。右側の写真でガスガス伸びているのがプレートを固定する釘です。にょろっと伸びているのは血抜きのチューブです(退院時に目の前でつつつーっと引き抜かれました、気持ち悪いです)。
手術が終わっても点滴が取れるわけではなく、すぐにごはんが食べられるわけでもなく、左腕は全く機能しないので、ただひたすらに退屈でした。
22時過ぎには、「指動け」と思うとぴくっと曲がり始めるようになりました。しかし、普段通り操っている感じは全く無く、他人感がすごいです。そんな風に徐々に麻酔から醒めていくということは、切開した分の相応の痛みも一緒に思い出すわけで。元々かなり熱を持っていた左手が、ちりちりと痛み始めました。ここで早々に鎮痛剤を点滴に投与してもらったのは失敗でした。痛みの峠は思ったよりも深刻でした。
2019/5/1 米盛病院
日付が変わるあたりで痛みが本格化しはじめました。前日は昼間からちょくちょく寝ていたせいもあるかもしれませんが、痛みのおかげで寝られるような状況ではありません。手もパンパンにむくんでいます。そりゃ手首を7cmも切って栓抜きみたいなのを入れて釘でぶち抜いているんだから無理もないよなと後になっては思うものの、この時はそんな冷静でいられる状態ではありません。眠れもせずただじっと時間が経つのを待つこともしんどいので、ここでもやはりAmazonのプライムビデオを観てごまかしごまかし時間の経過を待ちました。痛みとともに、左腕の触覚や動きを徐々に取り戻していく感じがまた憎らしい。かといって思い通りになるわけでもないので、はだけた術衣を自分で直すことすらできません。それと、手術が終わっても外されることのない点滴と心電図がこれまたひどく邪魔でした。あと、この日の夕方から入ってきた隣の患者のいびきがわざとかっていうくらいにうるさかったです。
痛みのピークは3時~4時あたりだったでしょうか。左手はすべての指が動くようになっていました。プライムビデオにも飽き一向に収まらない痛みに人知れず顔をゆがませていた(ガチ)のも精神的に限界がきて、ナースコールで2回目の鎮痛剤を頼みました。2度目は点滴でなく座薬でした。右手も怪我しているのに……。とはいえ全く動かないわけでもないので看護師に入れてもらうのも忍びなく、自分で頑張りました。程なくして痛みが落ち着いてきたので、2時間ほどは軽く寝ることができました。ちなみに、心電図を外してもらえたのもこのぐらいのタイミングだった気がします。
明け方、目が覚めた頃には肘も動かせるようになっていました。起き上がるたびに自分の意志とは関係なくブランブランしていた左手の統制が取れるようになったのでだいぶマシです。動くようになったといっても、自分の意志ではありつつもその動きのどこか他人事感は少しばかりぎょっとします。しかし、肘が動くようになったあたりで痛みも峠を越えていました。まだ手首がピリピリするものの、我慢ならない痛みという程でもありません。
6時過ぎに様子を見に来た看護師が点滴も外してくれたので、ようやく好きに動けるようになりました。朝食の時間が近かったですが、昨日コンビニで買っておいた食料をここで食べて自由の喜びを噛み締めていました。
(7:30)
もちろん朝食も完食です。
さて、入院して検査して手術して痛みが引いてきたかと思えば、もう今日の午前中には退院です。退院にあたってもいくつか書類にサインするのでどこか慌ただしい朝でした。
(10:16)
10時退院を目途に荷造りも進めました。宝島の民宿であれだけ苦労していた荷造りですが、右手の痛みも収まりつつあったからか気持ち楽でした。回復に向かっているという気分的な要素も多分にあった気はします。
(10:16)
2日間と少し見続けたこの景色ともおさらばです。後半はずっと雨が降っていた気がします。
荷物をまとめて病棟を出たら、1階の総合受付で治療費の支払いを済ませます。支払いや書類のサインなどは一般的には付き添いの人がやる想定のようで、なんでもかんでも患者自身がやるにあたっては病院側もどことなく対応慣れしていない感じがありました。
ここからの帰り方ですが、まずは受付でタクシーを呼んでもらいました。足腰は元気なので最初は歩こうかなという頭も少しばかりあったのですが、外は雨だしここで転ぶのも嫌だしと無難なほうを選びました。
タクシーで鹿児島駅の空港バスターミナルまで行き、そこからバスで空港へ。連休のど真ん中に大移動する人もそこまでいないようで、鹿児島空港の混み具合はさほどでもありませんでした。軽くお土産でも買っていこうかとちょっと売り場が気になりはしたものの、お前は怪我人だと自分に言い聞かせ荷物を増やさないように努めました。
保安検査を通る時、この左手の金属プレートってどうなるんだろうと気になりましたが、何も問題なく通過しました。たしかに眼鏡なんかも外さず通れますもんね。
(15:30)
飛行機では隣が空席でのびのび座れました。こちらが怪我人だと見るや、搭乗口から座席まで荷物を持ってくれました。飲み物にはストローもつけてくれました。ありがとうANA。
2019/5/1 実家
夕飯前には実家に到着しました。安心感半端ねえ。旅というのは自分が無事でいて初めてワクワクと楽しめるものであることがよく分かりました。この両手での移動はただの不安要素でしかありませんでした。
夕飯はたしかカレーだったので当然スプーンで食べたのですが、ちょうどこの日ぐらいから右手の指が比較的まともに動くようになり、実家に帰ってからは基本箸で食事をしています。左腕に三角巾を使うのをやめたのもほぼ同じタイミングです。
余談ですが、右手の平の大きな擦り傷、ずっとガーゼを当てていたせいか、納豆のにおいがしました。洗うと翌日には消えていました。
2019/5/2~5/6 実家
連休いっぱいは実家でおとなしくしていました。実家を出てから1年ちょっと、連日実家で生活するのは久々だったのでこれはこれで悪くない。
(10:12)
連休最終日の左手。
金属プレートを入れた以上、骨の形的にはズレる心配もないのでシーネもいらないらしいのですが、医者にその後の経過を見てもらっている訳でもないので念のため着け続けていました。シャワーの時にはビニール袋で肘から先を養生し、包帯を変えるときにだけ外しました。
(10:12)
続いて連休最終日の右手。
中指以外の外傷はおおむね問題なくなりました。しかし、内出血跡が表面に出るようになり見た目グロいのと、やはり指は動かしにくいです。それでも毎日意識して指を動かしているうちに、左手から手首にかけてのむくみはみるみる引いていきました。
2019/5/7 出勤
連休明けからは通常通り通勤しました。当然なんだその腕はと訊かれ、「バイクか」とお決まりのフレーズが続くものの、バイクではないんですと返し続ける1日でした。キックボードで転倒したことは、それ自体があまりにもアホみたいなのとキックボードという物を説明すること自体が面倒だったので、キックボードの存在は伏せてシンプルに歩行による転倒ということにしておきました。それにしては当初の創傷があまりにも派手だったので、連休後半をまるまる療養に充てて多少まともなビジュアルで出社できたのはこれ幸いでした。まだ固いものの指は動くしパソコンのキーボードも打てる状態だったので、仕事にも存外支障はありませんでした。しばらく手の動きがまともに無かったので、一日タイピングしていたら左手の筋を軽く痛めましたが。それでも、病院から貰っていた痛み止めはこのあたりから飲むのをやめました。逆に言うとここまでは手術痕が若干ピリピリしました。
2019/5/8 地元の大きな病院
旅先で手術をした最大のデメリットとして、地元で再び病院を探さねばならないということがあります。とりあえずはちょっと遠いけれどかなりでかい病院へ、経過確認と処置の状態について確認してもらいました。そうです有休を取りました。手術を行った病院で紹介状を書いてもらっていたので、それを受付に出して診察。とはいえ待ち時間2時間半くらい掛かっています。
「処置に関しては問題なさそう。この病院では大きい手術が必要な人しか普段は診ない。なのでリハビリだけなら近くの整形外科紹介するからそっちに通ってね。金属プレートを外すときにはまたそっちの整形外科から大きい病院を紹介してもらってね」というようなことを言われ、切開痕に貼ってあったフィルムを剥がしがーぜを交換しました。シーネも外れました。また、この手の手術をした場合には親指の可動域が露骨に狭くなるので、リハビリに通う前からその辺は自分で意識して動かすようにとも言われました。言われた通りしっかり毎日動かしました。
シーネを外す前後から手のむくみがみるみる引いていったのですが、それでこれまで突っ張っていた皮が余ったせいか、手がやたら乾燥しました。
2019/5/11 地元の整形外科
大きな病院では継続的な経過確認やリハビリを受けさせえて貰えない(その病院で手術した患者を除く)ということで、自宅から近めの整形外科を紹介してもらっていました。
(左手)指は動くし腫れもほぼ引きました。この日は簡単な消毒をして包帯替えただけ。切開痕が治ったらリハビリと言われる。自分でもちょっとずつ積極的に手首動かす。
(右手)指おおむね動くようになる。中指は平常に戻りつつあるものの切ったところよりもすぐ先側の一部に感覚が戻っておらず不安です。切り傷の下の肉はなぜか硬くなりました。指の付け根や手の側面にあった内出血の痣は消えました。
2019/5/13
両手が握力を若干取り戻しつつあることを自覚しはじめました。
(左手)おそるおそる手首本格的に自主リハビリ開始。切開痕がかゆい。
2019/5/15
(左手)指は9割がた動くように。
(右手)中指の切り傷のかさぶたが剥がれる。しかし傷付近の感覚が一向に戻らない。切り傷にはまだぶつかると痛いというかびっくりする。感覚無くなった部分の神経がここに集中してしまっているような知覚過敏の状態。
2019/5/16
(左手)手首の可動域少しずつながら着実に広がる。手術痕は端の方は完全にふさがる。かさぶたみたいになってかゆい。
2019/5/19
(左手)茶碗が持てるくらいには手首が返るようになる。手術痕もふさがっている気がする。手首が返りきらないのでお釣りが受け取れない。
(右手)中指がガーゼ絆創膏等つけずに過ごせるように。まだ痺れがあるものの、切傷の先も徐々に感覚を取り戻しつつある。
2019/5/25
整形外科へ。診察の後リハビリ開始。以後、毎週土曜日朝一で通う。10分間お湯で温めてからストレッチとマッサージ。この頃から日常生活にはほぼ支障がなくなる。
2019/6/20
保険金が振り込まれる。破損した眼鏡・カメラと医療費を賄って黒字という結果に(往復旅費まで入れるとさすがに足が出る)。
2019/10/13(記事公開時補足)
リハビリは1か月ほどで終了。手術痕ははっきりと残ったままで、天候によっては手術痕が痒くなったり乾燥しやすかったり。ただし動きなどはおおむね怪我前と変わらず違和感は全くありません。
今後
金属プレートを入れたままだと、100%かつての可動域を取り戻すことは不可能らしい(とはいえ生活には全く困らない)のですが、半年~1年後にまた手術で取り出します。そうですまた手首かっさばきます。
今回の反省
・車輪の小さい乗り物は使わない。
・人力を超える速度の乗り物に乗るときはグローブを着ける。
今回の敗因は他でもなく、離島というインフラが確実でない環境下でキックボードを移動手段として自ら用意した事でしょう。バイクではそれなりに意識しているスピードと路面に対する意識がすっかり欠けていました。また、登山用グローブを用意していたのに着けていなかったことも外傷を増やしました。右手の傷はその差でもだいぶ状況がマシになっていた気がします。
そして、受傷後から手術を受けるまでの展開はこれ以上ないくらいにスムーズでした。10連休にもかかわらずほぼ最短期間でしかも整形外科に強い病院で手術を受け、一通りの処置を終えて地元に戻り、連休後半を使って実家療養ができたことは運が良かったとしか言いようがありません。
すっ転ぶ前にもしばらくキックボードで移動していた訳ですが、その間には転倒時よりもはるかに速度を出していたタイミングもありまして、もしその時に同じ目に遭っていたら怪我はこんなもんじゃなかっただろうと思うと、今考えても恐ろしい限りです。ある意味最序盤のうちにこの程度で済んで良かったというのが正直なところです。
よもや全く同じことを試みる人はいないでしょうが、皆さんも旅先での事故にはお気をつけて。
2020/5月下旬
ちなみに、
2020/6月上旬
2020/6/18
2020/6/19
手術創には分厚いガーゼが当てられています。
これが1年間行動を共にしたプレートと9本のボルト。小ぶりな栓抜きくらいはあります。軽いので恐らくチタン製?
2020/6/20
2020/6/22
手術から3日。手術創を心臓より下げると血が降りてしんどいので極力持ち上げて過ごしていたら、手術創からの内出血が手の平~肘近くまで痣を作りました。グロいですが痣部分は別に痛くありません。2日くらいで大半が消えました。
2020/6/26
1週間後の経過観察でレントゲンと診察。
退院の朝から貼ったままだったキズパワーパッドの親分を剥がし、ガーゼと防水シートに変わりました。以降、自前でガーゼを取り換えて過ごしました。
2020/7/3
手術から2週間、抜糸のために病院へ行きました。診察室に入るなり医者はガーゼを剥がし、ピンセットみたいなので糸をつまみ上げてハサミで糸をパチパチと切られました。縫合はたぶん9針くらいでした。糸の刺さっていたところから若干血はにじみましたが、手術創はふさがっています。
もうこれで治療は終了ということで病院には来なくていいよとのお達しを受けて、病院を後に。手首のがまだ固く動き切らないところはありますが、握力やねじりの動きはほぼ日常生活に支障がない状態。動きを完全に取り戻すため、1年前のリハビリの内容を思い出しながら自分で手首を伸ばしています。